ものろーぐ

感じたことを、そのままに。

不登校

でした。

 

高校三年生、夏の初め頃に、突然外にでられなくなりました。ざっくり言ってしまえば引きこもり。

朝の六時、まだ人の少ない最寄り駅のホームに立つと、視界が端から白くなり、過呼吸に近い症状が出ました。末端からざあっと血の気が引いていく音が鮮明に聴こえました。

とりあえず乗車はしてみるものの、一時間程かけて通うのは非現実的だと途中下車せざるを得ない状況。

 

「このまま死んだらどうなるんだろう、」

「何処の誰が悲しんでくれるんだろう、」

「多額の賠償金で家族が苦しむことになるんだろうか、」

「でも、今、私は苦しいから落ちてしまいたい」

 

きっかけなんて、今思い返しても一つに定まりません。

クラスや部活の人間関係に嫌気がさしていました。どうしても合わない人達と常に接してなければならないのが苦痛でした。まさに思春期。

持病の腰痛とその薬の影響で、身悶えするほど手足の痺れに悩まされていました。

でもそんなことはきっと、その時の私にとってはどうでもいいことでした。とにかく他人に会いたくなかったのです。一人の時間を確保したくてしたくて仕方がなくて、どうしようもなくなって全てから「逃げ」た。

 

当然と言うべきか、親の理解は得られませんでした。

嫌ならやめろ

無理して行くくらいなら学費の無駄

甘えるな

どうせ学校行くのが面倒なだけ

お前らに何がわかる、と言いたかった。

 

担任や副顧問には相当な迷惑と心配をかけたと猛省しています。特に副顧問は、三日に一回はメールをくださりました。世間との関わりが断絶しないように、でも私を追い詰めないように手を尽くしてくださいました。

放っておいてくれと思ったことも度々ありましたが、再び登校できるようになったのは彼女のお陰です。

久々に足を踏み入れた教員室で真っ先に私を見つけて駆け寄ってきた彼女の笑顔を、きっと一生忘れないでしょう。

 

約一ヶ月半の長いようで短い休息の間に、普段できないような色んなことをしました。

少し昔の映画を借りて観てみたり、積読だった小説を少しずつ崩していったり。隅々まで部屋の掃除をしたり、ちょっとしたお菓子を作ってみたり。

早く復帰しなければと必死になるのではなく、あくまでも心にゆとりを持てるようになろうと努めました。

今なんとか精神状態を保っていられるのは、この経験があったからかもしれません。自分を程良く休ませるためにはどうするのがベストなのか、高三にもなってようやく見い出せたのです。お恥ずかしい話ですが。

 

なぜ今文字にしようと思ったかというと、少ししんどくなってきたから。

きっと支えてくれる人も、支えてくれている人もたくさんいる。ちょっと今は周りを見る余裕がないけど。

これを思い起こせば乗り越えられる、なんてハードな経験ではないけど、こんなこともあったな、くらいのささやかな懐古で救われる自分になれるといいなあ。

人智を超えた

ものに対する畏怖の念について。

豪雨が降った時に「この世が終わるような」悪天候って言うじゃないですか。
後は巨大な竜巻を遠くに視認した時とか。

でもよく考えたら、少なくとも今を生きている私たちは「この世の終わり」なんて経験していない訳で。

誰も知らないんです、終わりを。

怒った自然の前には、人間は塵ちりひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。
有島武郎 / 生まれいずる悩み

「怒った自然」というのは先述したような荒れ模様の天気のことだと伺えます。
人類は天気を含めた万物を擬人化することで「概念化」していたのではないかと考えます。

日本では古来より八百万の神の存在が信じられてきました。
理解し難いものや人に危害を加えるものに対して姿を与え、身近にある全てのものを信仰の対象としたことで、恐れ敬うものや親しみぶかいものにすげ替えたのではないでしょうか。


さて、悪天候の話題に戻ります。

昔はきっと、なぜ天気が荒れるのか理解し得なかったでしょう。
人智を超えた「神」の怒り=我々人間の力及ばない現象、とすることで責任感を覚えずに済んだとも捉えられます。
どう足掻いても救われない、人間如きでは手も足も出ない状況下に置かれた時に湧いてくる「諦め」を表すために「この世の終わり」と表現したのだと思います。


ノストラダムスの大予言ってありましたよね。「1999年の7月に恐怖の大王が来る」ってやつ。
(まあ実際に人類が滅亡していたら私は生まれてないので、何事もなくて良かったです。)
あれも、環境問題とか核兵器とか、我々人間の愚かな産物が引き起こした惨劇であるとされていたそうです。

「終わり」は未知のものであり、私たちは知らないということを恐れます。
特に、「死」という概念について、私たちは知る由もないのが現状です。

何が言いたいのかわからなくなってきたのでまたまとめ直して編集かけるかもしれませんがひとまず考えたことを吐き出しておきたい。
こういう学問領域にも手を出してみたいのよねえ。

あはれなるもの(現代版)

朝早くの駅のホーム。
向かいにも左右にも人っ子一人いなくて、電車も来なくて、世界に自分だけしかいないような気分になる。
お手軽ディストピア感。

香水とか整髪料とか、それまで一緒にいた人の匂いが自分からした時。
別れたばかりなのにすぐに会いたくなって、次はいつ会えるのかしらって思いを巡らせる。
相手も同じことを考えていてくれたらいいのに、なんて思うから、今一番欲しいのは香水。

帰宅途中にちょっと寄り道をする時。
夕方なら商店街をぶらつくし、夜なら遊歩道をゆっくり歩く。
日差しを溜め込んだコンクリートにも、耳が取れそうな寒さにも耐えられないから、秋にお散歩するのが好き。

信頼してる友達と夜の公園で飲む缶のお酒。
視界の周りがぼんやりするくらいの量で笑いが止まらなくなって、思ってることを何でも話せてしまうのがいい。
甘ったるいのは少し苦手だけど、初夏のまだ涼しい空気の中ではちょうどよかったりもする。

Yシャツとか首筋とかにアイシャドーのラメが移っちゃってキラキラする時。
帰りの電車内で隣に並んで立って、あまり変わらない目線を交わして、「あっ、付いちゃってるな」と思った瞬間、言葉に表せない愛しさと、ほんのちょっとの切なさを感じる。
心強さは特にないけど。

いつかはきっと

報われる、なんて。

世のメンヘラ・サブカルJD・バンドマンの9割(当社調べ)が聞いて、それっぽく同調しているワンフレーズ。

よくわからない名前も、
男性ボーカルなのに私より声が高いことも、
重たい髪を邪魔くさそうに振り乱しながら歌う所も、
全部全部どうしても気に食わない。

犯した過ちを「夏のせい」にしてるのとか本当に頭が弱そうだし。下半身と脳が直結してそう。

大した努力もしてないくせに「報われる」とかほざいてんじゃねえよ、バーカ。

例えば今この瞬間に、

私がこの世にさよならを告げたとしましょう。

心臓発作でも交通事故でもなんでもいいけど。
あ、でも痛いのも汚いのもグロいのも嫌。
女の子だもん、いつだって綺麗でいたいでしょう?
そしたら凍死が良いって聞くよね。
百合の花の毒で眠るように死ねるってTwitterのTLで見たことあるから、それでもいいかも。なんかお姫様みたいでウケる。

まあどうだっていいや、死んじゃえるなら。

もしね、もし私がいなくなったら、誰が悲しんでくれるのかなあって考えるの。
お葬式とかお墓参りに、私のためだけの時間に、わざわざ時間を割いてくれる人がどれくらいいるんだろうって。
親族とか友達とか彼氏とか、その他の薄っぺらい人達とか、私との繋がりはどこまで深く浅いものだったのかなって確認したい。

私の死を、どうでもいい他人なんかに悲劇的なお話として片付けないでほしいの。
私にはない「将来」、そう言えば昔こんなこともあったよな、程度に薄れさせないでほしいの。

死んじゃったら何もわからないけどね!

それで、もし皆がどっぷり涙に暮れてくれないなら、死ぬんじゃなくて跡形も無く消えたい。
元から存在してなかったことにして、誰も、私でさえも傷付かないようにしたいの。

リアリティないなんて笑わないでよ。
笑うくらいなら、後を追うくらい悲しんでよ。

あとこれは最期のお願いね、遺影は1番写りが良いやつを掲げてほしい。すっごく楽しそうやつ。
私の最高の笑顔を見て、もう会えないんだって嘆けばいいの。

身長

がコンプレックスだった話。

 

昔から他の人よりも目線が上でした。

小学校の頃は前ならえで腰に手を当てふんぞり返るクラスメイトに羨望の眼差しを向けるのが日常だったし、組体操は大抵下で踏ん張ってるタイプだった。

ピラミッドの土台部分で掌と膝を痛める経験はきっと高身長の方としか共有できないでしょう。あれ本当に辛いから。石刺さるから。なめんなよ。

 

なぜ背が高いことに否定的感情を抱いていたのかと言うと、ひとえに威圧感が凄かったからです。もちろん私のね。

目付きが悪い上に、幼い頃「は」気が強い子で通っていたので、身長があることで輪をかけてただの怖い人でした。女子はもちろん大抵の男子は見下ろしてましたしね。今も怖いとかそういうのは受け付けてないです。

 

小5から空手をやっていたので、その点では脚が長いぶん蹴りが得意かな〜、くらいでした。

脚を振り回しているみたいだと仰った師匠に、我ながら言い得て妙だなと思ったのを今でも覚えています。

 

大学に入ってようやく「あれ、実は身長あるほうがいいのでは?」と思い始めました。

カジュアルな雰囲気だったり綺麗めな服装だったり、好きなジャンルの服が映えるし、スタイルも良く見えることに気付いたのです(あくまでも「見える」です。悲しいかな、相対的には決して良くない)。

 

先日撮ってもらった全身写真を見たところ、流石に自分が高身長であると視認させていただきました。やっぱり客観的視点は大事ですね。

遠目から見て「あの人だいぶ背があるなあ」と思っても、いざすれ違うと自分の方がはるかに高かった、みたいな心持ちです。

全身写真というのは、最近LINEのプロフ画にした写真です。ぺたんこの靴を履いていたのにも関わらず、「高い」と言うよりかは「細長い」でした。

自分気持ち悪っ、と思ったので、これからあんまり高いヒールは控えることにします。

 

今年の健康診断では1cm縮んで、169cmでした。

どことなく残念な気持ちになったので、もしかしたら身長にアイデンティティを見出しているのかな、なんて思ったり、思わなかったり。

手帳

を紙媒体で手元に置いているという人はどれくらいいるんでしょうか。

 

一時期、「ほぼ日手帳」という商品を愛用していました。いくつか種類がありますが、文庫本サイズのやつです。

一日に一頁分のスペースがあるので、予定のみならず他の書き込みもできる。私はその日あったことをメモ程度に書き留める、日記のような役割を持たせていました。

 

自分がアナログ派の人間なのは自覚してます。板書は極力ノートに取りたいし、ベースのTAB譜は三回くらい取り直して清書します。手を動かして文字を書くことで頭に入ると頑なに思っているタイプの人種なので。

 

でも、手帳に書き入れる作業だけは面倒に感じてしまったのです。

 

これはただの憶測だけど、社会不適合者の道に片足を突っ込んでいる私にとって、予定を「書く」と、それがのしかかって来るように感じたんだろうなと。

どんなに仲の良い友人との予定だって、何故か直前になると出かけるのが億劫になる。行ってしまえば楽しいことは分かっているのに。

もちろんいつもではないんだけどね。

朝起きる時とか家出る直前とかに突然憂鬱になること、他の人にもあると信じてます。

ただでさえ嫌なバイトなんかは、書くことで頭に入れてしまうと本当に行きたくなくなっちゃう。

だから、フリック数回で済ませられるアプリなら。それなら、のらりくらりと生きていたい自分を追い詰めないでいてくれるのかなって思いました。

 

あれ、作文?